少し肌寒いが、近所の路上で
ちょっとロックな感じの若いお父さんが
半袖半ズボンで、子ども相手にボールを蹴っていた。
それを見て、Yくんと、うちはアウトドアのない家だったねえと
しみじみ語り合ったのだった。
「アウトドアの文字はなかったですねえ。パソコンは教わりましたけどねえ」
と笑うYくん。
確かに野球、サッカーどころか、父親が率先し積極的に公園に行くなどということも
なかったのではないだろうか。
音楽がらみでキャンプのイベントに行ったこともあったが、
彼はただ、気持ちよさそうに、セーラムを吸うばかりであった。
アウトドアのアの字もない家庭であった。
そういう私も、ネオンの見える家で育った。
まもなく東京オリンピックで湧く頃に
父親が選んだ家は
京成千葉駅からほど近い雑居ビルの4階だった。
団地でもなければ
当時はとてもモダンな話だったらしい。
内廊下をはさみ、6畳だか8畳だかの
陶器製の小さな流しのついた
今で言うワンルームを2部屋。
一つの部屋には、子どもが遊ぶには十分なベランダがついていた。
トイレは共同。風呂はなかった。
だから自動車でいつも銭湯にでかけた。
内装も当時としては精一杯モダンだったのだろう。
白い布のかかった応接イス、小さいながらもダイニングテーブル。
父親が仕事をする大きな木の机のほかに
事務用の金属製のライティングデスクもあった。
黒電話もあった。
壁には実篤の書いた絵がかかっていた。
レコードプレーヤーもあった。
白黒テレビもあった。
同じ部屋に
父親が趣味だった海釣りの竿まであった。
両ざら天秤もあった。
あった、あった、あった。
父は、洋風に、なんでもそろえたかったのだろう。
ある意味で新しモノ好きであった。
私が小学校3年生の時にはフタのついた重くて四角いカセットデッキが
やってきて、英会話のテープをかけたり
友だちを呼んでは歌を吹き込んで遊んだりしたのだ。
遊ぶといえば、遊ぶ場所は
専ら、屋上か、ベランダ
雨の日は共用廊下と決まっていた。
そうか、私こそアウトドアではなかったのだな。
ただ古い物干し台のある屋上の空は十分に大きかった。
さんさんと陽が降り注いでいた。
少し冒険して給水塔のある所まで上ると
当時はまだ千葉の港とぽんぽん船がみえた。
その向こうには、火力発電所の煙突群。
海はすぐそこにあった。
共用廊下で遊ぶのも好きだった。
きょうだい3人でボーリングをして
隅にあった消火器を倒し
母親が後始末に追われたこともある。
そんな共用廊下の奥の一部屋からは
いつも大音量で音楽が聞こえていた。
流行歌、ジャズ、なんでもござれだったが
特に私たち3きょうだいのお気に入りは
ウー!の
マンボNo.5が。
そして今思えば、何度も何度も繰り返し聞こえていたのが「テイク・ファイヴ」。
あのリズムにのって、私たちはタマを投げたり
ままごとをしたり、バカみたいにわるふざけしたりしていた。
「あの人、5という数字が好きだったのかねえ」と
これはずいぶん最近になって、弟Fくんと話したこと。
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ところで家には、畳などもちろんない。
座布団ではなく椅子の生活。
ただし祖母は、ソファベッドの上に正座してテレビを観ていた。
一日中。
夜になると、それを倒して
私は祖母と並んで寝るのが常だった。
スプリングをぎしぎしいわせながら目をつぶると、街の音が聞こえた。
ビルの一階には小さなバーが並んでいて
ママが、お客さんを送る声が響いて聞こえることがあった。
女の人の大きな声、お酒の入った男の人の声、
閉まるタクシーのドア。ばたん。
ベランダ側は錆び付いた枠の窓になっていたが
カーテンがあったのかどうか覚えていない。
ただ私がものごころつく頃にちょうどその窓の正面に
そごうデパートが建ち
夜になると屋上では、誇らしげにネオンサインが輝いていた。
ロゴマークの“ちきり”が伸びたり縮んだりと、単純な動きながら
夜に輝くきらめきは
子どもの私にとって、希望の象徴にみえたものだ。
松戸市の博物館には、昭和30年代の団地文化の象徴
常盤平団地の一室を再現したコーナーがあるのだが
あそこに行くといつも、いつも、ああ、私の家に似ていると
時間を重ねてしまう。
余談だが、ウシャコダの藤井康一さんはこの常盤平で育ったそうです。
藤井さんは今も、市の環境大使=減CO2~ゲンコツ~大使を務め
テーマソングを歌っていますよ。
と、たまにはこんな風に昔のことを思い出して書き留めておこう。
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