家にこもっても良いとなった日には
ひょっとして本当に一歩も外へ出ないこともある。
夕方ごろ、ようやくドアをあけてポストまで。
集合ポストのところには女性の先客がいた。
こんにちは、と会釈する。
と珍しく相手も返してきた。
「●号室の●●です。」
やさしい笑顔だ。え、あの怒鳴りちらしてるであろう当人か。
「息子たち、うるさくないですか」
意表をつかれた。
「いや、うるさくないですよ、お子さんたちは。」
一瞬、顔色がくもったように見えた。
いや、そう見えただけかもしれない。
なんとなく気まずくて
ポストから手紙を取るとそのまま踵を返してしまった。
しかし気のせいではなかったのかもしれない。
その日から朝晩のどなり声はある日の夕方をのぞき
ぴたりと聞こえなくなった。
むしろ心配になるくらいだ。
おそらく本人も気づいているのだろう。
やめたいと思っていると信じたい。
改めて考えれば、原因は母親にあるのではなく
子どもたちに何か手に負えない
問題があるのかもしれない。
もしそうであれば、母親が内にこもり
暴発してしまうことはないだろうか。
そして、私ももう少し皮肉ぽい言い方ができなかったものだろうか。
とは言え、何と言えばよかったのか
どんな態度をとるべきだったのか
いまだ正解と思える答はみつからない。
2016年6月20日月曜日
2016年6月19日日曜日
浮気のブルース
テレビでは連日、不倫だ、浮気だとそんな話ばかりだ。
放射性廃棄物の公共物での利用
ありえん大臣の復帰
JASRACと美容室の件
原宿駅解体に、中野サンプラザ跡地にできる1万人(!)のホールと
いくらでも、とんでもない話はあるのに。
不倫を肯定するわけではないが
ちょっと他の人になびいてしまう
あるいは、道ならぬ恋に歩を進めてしまうなぞ
今に始まったことではない。
人間って、考える力を身に付けたばかりに
間違える。
間違えて悔やんだり、
あわてたり
暴れたり
いじけたり。
じたばたして
みっともなくて滑稽だ。
それを見て笑うのも人、
ため息をつきながら、手を差しのべるのも人。
人生には一人の人間には、どうにもならないことがあるようだ。
それは理性とやらのこともあれば
もっと大きな運命のようなものののこともある。
件の不倫であれば
おさえきれず人を好きになってしまうことも、
結ばれることは不可能だと泣くこともまた
そうかもしれない。
そして私は
そのどうにもならないことに
ブルースという音楽の根っこを感じる。
だが、まちに空き地や遊びが減っていくのと
同じスピードで
そういうこともあるよな、とつぶやける
余白が人々の心から少なくなっている気がする。
学校ではどうしているのだろう。
文学やアート、あるいは芝居には
どうにもならないことや、どうにもこうにもといった人たちが
たくさん描かれていた。
私はそれを愛したが、もはや共感すらしてもらえないのかもしれない。
男と女がいる限り
ブルースはあるのだと
先人たちは言った。
だからブルースはなくならないのだと。
Yくんらを見ていると
女に腹をたてることはあっても
女に恋焦がれることはないようだ。
彼らのような人が増えていけば
ブルースほどの強烈なパッションは
だんだん必要なくなっていくのだろうか。
6/11記
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