2012年7月15日日曜日

初めてのバレエとPPMと藤原マキ (その2)


◆バレエとPPM



初めてバレエを観て、思い出したことが2つある。


今と違って、バレエを習う子など周りには皆無だった。
と言うより、バレエなんて、写真か漫画でしか
観たことがなかったのではなかろうか。
それでも、
それらしく友だちと、
足をあげたり、
ポーズをとってみたりしていた。

“トゥーシューズ” という響きが好きだった。

バレエのことをよく教えてくれたのは
5つばかり年上の八百屋のお姉さんN子ちゃんだった。

小児麻痺の弟がいたと思う。

彼女は、いま思えば、なのだが
PPMを縦笛で吹いて聞かせたりもしてくれた。

なんだか知らない世界がたくさんあるようで
魚屋のともちゃんと誘い合って、よく遊びに行った。

4畳半あったかなかったか
狭い畳の部屋でバレエのまねごとをした。

バレリーナはつま先ではなく
足の指をグーにして立つのだと
N子ちゃんは教えてくれた。

実際はそんな単純なものではないらしい。
でも子どもは必死だった。
来る日も来る日も練習を重ね、数秒だが
立てるまでになった。

だが、ある日、唐突に親から
「○○ちゃんとは遊んではだめ」と言われたのだ。

足指をグー立ちさせたからではない。
万引きをしたから、というのがその理由だった。

 シューライシューライシューライオー
シューライワクシャク シュララヴュー

彼女の口から流れ出た呪文みたいな歌は、
子ども心にも、楽しい歌ではないことはわかった。
いや、N子ちゃん自身も子どもだったのだが。

PPMの「虹と共に消えた恋」だと知ったのは、
それから20年以上たってから。


シューライ、シューライのメロディと共に
家に遊びに来たのに、
追い返されて階段をおりていった
彼女の哀しそうな顔を思い出す。




◆バレエと藤原マキさん


もう一つバレエで思い出すのが
藤原マキさんのことだ。

つげ義春さんの奥様である。

面識があるわけではない。
マキさんの絵と文による『私の絵日記』が
大好きだっただけだ。

不安神経症を患い、電信柱みたいにぶっ倒れることもある夫と
幼稚園にあがったばかりの引っ込み思案の息子との毎日。
しかも自身は、ガンを患っている。

こんな病気になったのは
母の言いつけを守らなかったからだと
“オベンジョ”をきれいにしていなかったからだと
“テッテ的に”掃除するマキさん。

おとうさん=つげさんの発病もあって
内容はだんだん深刻になっていく。

夫を支えてとか、けなげに、とか、そんなきれいごとではない。
寝て起きれば、必ず向こうから何かが飛んでくる。
どうしようもないのだ。
そのあれこれをよけたり、よけそこねてぶつかったりしながら
それでも生きていく日記である。

つまった風呂場の配水口に
手を突っ込んで掃除して
水が流れていく音に
じっと耳を傾けている姿が
すべてを物語る。

「内ぶたをとると、ノロがびっしりついていた。取りのぞいてやると、溜まっていた水が驚くほどいつまでも流れるので、その音に聞き入っていると、心のゴミまで一緒に流れていくような快感があった。」(P123より引用)

私は、この一文で、初めて、「ノロ」という呼び名を知った。

そんなマキさんが、おそらくは四十間近で
近所の集会場にバレエを習いに行く。

状況劇場で女優さんをしていたとは言え
初めて読んだときは、よく決心がついたなと思ったものだ。

足の筋を思い切り伸ばし
指先まで心を込めて腕を伸ばし
マキさんが、思いきって空気を吸える時間、
それがバレエのレッスンだったのかもしれない。

読み返したら、マキさんは
<トゥーシューズ>を
<踏シューズ>と書いていた。
フロアをしっかり踏んで練習しているマキさんが想像できる。

絵の中で踊るマキさんは、かなり、へっぽこだ。
だが、マキさんはもっとお上手だったのではないだろうか。


舞台女優で、絵が描けて、文章も綴れ、
そしてつげさんの奥さんで。

加えて、踊りがうまくても何の不思議もない。



amazonで調べたら、今、文庫版は品切れだった私の大事にしていたのは
グリーンのカヴァーの北冬書房版。
あの大きさがよかったんだけどな。





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